母の名はエヴァ・レイナーであり、彼女はNational Council of Womenの会長であった。ケンブリッジの市長も同時に勤めていた、ばりばりのキャリアウーマンであった。曽祖父の1人にサミュエル・スマイルズがいる。サミュエル・スマイルズは、1812年12月23日生まれ、1904年4月16日没の、イギリスの作家であり、また医師である。彼は、医師として、当初エディンバラにて開業を行った。しかし、後に書きものに没頭するようになる。1859年、ジョン・マレー社より発売された「Self-Help」は、1866年に江戸幕府の留学生取締役としてイギリスにわたっていた中村正直が、1867年に増訂版として発売されたものをもって、1871年に「西国立志編」として翻訳した。そして、別の曽祖父には造船技師がいた。一応名前を書いておくと、彼の名はウィリアム・ハートリーである。ハートリーはケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学した。しかし、第一次世界大戦によって学業を中断せざるを得なかった。

1921年、ニールス・ボーアという人物がケンブリッジを訪問したことをきっかけに、ボーアの原子模型に自身の計算スキルを応用させてみたらうまいこといくのではと思いついてしまった。ボーアは、高校の物理で原子の勉強をすれば出てくると思う。あまり内容は覚えていないが。そして、それを応用させ、1926年に博士号を取得した。彼を指導した人物は、アーネスト・ラザフォードである。彼も高校物理で知る機会があると思う。ニールス・ボーアは、1885年10月7日生まれ、1962年11月18日没の、デンマークの理論物理学者である。量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導し、量子力学の確立に大いに貢献した人物である。ボーアはコペンハーゲンにて誕生した。1903年、コペンハーゲン大学に入学した。1911年、イギリスに留学をし、キャヴェンディッシュの研究所に所属した。そこの研究所では、ジョゼフ・ジョン・トムソンのもとで研究を行った。その後、1911年にマンチェスター大学に移り、そこではアーネスト・ラザフォードのもとで原子模型の研究に没頭した。

そこでの研究を終えると、再びコペンハーゲン大学に戻った。ラザフォードが提唱した原子模型の欠点を見出し、マックス・プランクの量子仮説を使って、これを解決した。そして、最終的に1913年、ボーアの原子模型として、一つの理論を確立するにいたった。ここまでは高校の物理でも習うことである。私もなんとなくやった記憶はある。しかし、高校物理の最後の最後に少しやるだけというのと、大学入試では出題されることがあまり少ないので、定着があまりよろしくない。1921年、コペンハーゲンに理論物理学研究所を開設し、海外からおおくの物理学者を呼び、コペンハーゲン学派を確立した。彼の原子物理学への功績が称えられ、1922年にノーベル物理学者を受賞した。その後はというと、相変わらず原子物理の分野に携わり、ヴェルナー・ハイゼンベルクらのもと、量子力学の形成の手伝いを行った。